納豆ひじきの晴読雨読

日記と、本を読んで感じたことを気ままに。

スプートニクの恋人

こんばんは。

今回読んでみた本は村上春樹さんの本です。

スプートニクの恋人 (講談社文庫) | 村上 春樹 |本 | 通販 | Amazon


実は恥ずかしながら村上春樹さんの本をほとんど読んだことがありません。
読んだことがあるのは、「ノルウェイの森」くらいです。
おそらく、2004年に新しく発売されたタイミングで読んだのだろうと思います。
2004年といえば、僕は13歳。5つ上の姉が意地悪な顔をして貸してきたことを覚えています。
当時中学生の僕には「ノルウェイの森」の性描写は極めて衝撃的でした。といっても、性描写の内容まで覚えているわけではなく、衝撃的であったことだけを鮮明に覚えています。
それと同時に、自分はなんて高尚な本を読んでいるんだ、と周囲の人間に対して優越感を抱いた記憶もあります。(実際は周囲の同級生たちも読書好きで博識なひともたくさんいた。)
ともかく、僕にとっての村上春樹は、「小さい頃に既に読んでしまった作家で、そのまま大人になってしまったけれど、その過程に他の著書を読んでこなかったため今更読むのは自分の浅薄さを露呈するようなものだ」という劣等感を抱かせる作家なのです。

しかし、社会人になり、また同じようなタイミングで自分より年上の女性と出会い、自分の正直な気持ちを隠すのがとても上手で、だけどその人が心乱されることに対してとても素直に感情を発露させる、その様を一番近い、だけどとても遠い場所で見つめさせられる、そんな体験が僕を村上春樹に向かわせました。
僕は彼女に片思いをしています。
きっと報われない、だけどそれを認めたくない自分は、日々理性に抗って生きています。

結果的に、「スプートニクの恋人」を読んだことは大正解でした。
「ぼく」が愛するすみれ、すみれが愛するミュウ、誰も愛せないミュウ。
体を重ねるということの意味を再認識させられます。
愛から生まれる性欲と、肉欲から生まれる性欲(この区分は正確ではないかもしれない。)は全く違う。
僕は経験人数が豊富なわけでは無いですが、少しは意味がわかるような気がします。
僕のいわゆる脱童貞は、22歳の時でした。
今時でいうととても遅いほうだと思います。
そこから24歳になった今までで、3人の女性とセックスをしました。
一人目は、愛したひと。二人目は、15年来の親友。そして三人目は、半ば騙すようにして抱いた、ほんとの名前もわからない人。

この中で僕が心から満たされたのは、一人目の愛した人と寝た時だけでした。
大親友といってもいい、15年来の友人は別れた僕を慰めるために、お付き合いをしている男性には黙って浮気をしました。僕もそれに甘え、何度も求めました。だけど、その友人のことを愛することはでき無いが故に、愛を満たされることはなかったです。浮気をしてまで僕に付き合ってくれる、彼女の友情に独占欲を満たし、親友との関係というものに酔っていました。
三人目は、寂しさを埋めるために彼女が欲しく、あったことも無い人を無理やり好きになろうとし、結果会ってみて想像と違ったためにやるだけやって捨てるという最低なことをしました。

きっと、今僕が恋をしている人は、今日食事をしている男性に慰められるために寝ているのだと思うと虚しさが募ります。
こんなものを書いていたいわけではなく、今すぐその人のところに行きたいという思いばかりがあります。
その人が男性と会うたびに、寝たのか?と確認したくなります。
壊れそうになる。
物理的な距離は、精神の接触をも阻む。辛い。
何度好きだといったところで、一度のキスには勝てるわけが無い。

体の接触なしには恋はできない、でもセックスをするからといって好きになるわけでは無い。
とても、難しいと思う。

本について書きたくなくなってしまった。
だけど、内容はこういうことなんじゃ無いかと思う。
この本を読んで思ったことだ。
これで終える。

アルジャーノンに花束を

こんばんは、納豆ひじきです。
この本について、自分の思うところを書きたい。
そんな思いだけでこのブログを立ち上げました。
そのくせ最初の記事は失恋の話なのはなんなんだ、というのは勘弁してください笑
ではしばしお付き合いを。

アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV) | ダニエル・キイス, 小尾 芙佐 |本 | 通販 | Amazon


この本の主人公は、精神障害を患ったいわゆる「白痴」と呼ばれる障害を持つ青年です。あらすじは書きません。この本を読んだ方がこの記事を読み、自分がどう思ったかをコメントしてくるのを夢に見て。
生来左手が悪く、身体障害をもつ私がこの精神障害者を題材とした名著に対してどう感じるかを記します。

ページ数は、2015年3月15日に発刊された[新版]に準拠します。

  • p187〜 
  チャーリーが知的障害成人センターに手術以来初めて戻った場面

このシーン、アリスがチャーリーがセンターに来たことに対して激怒する。アリスはここで「生徒たちがかわいそう」だと感じたのではないかと思う。チャーリーも昔はじぶんの生徒であり、その中から勉強に対するモチベーションを買われて手術を受けた。そしていわゆる「普通の人」になったチャーリーが生徒たちを「哀れんで」いると感じたのではないか。
チャーリー自身はおそらくそんな気持ちはなかった(もしくは自分で気づいていなかった)のだと思う。アリスのこの思考の流れには、普段からの白痴への哀れみをもった接し方がうかがえる。ふとした瞬間の哀れみが見えることほど辛いことはない。私はこのシーンのアリスは嫌いだ。

  • p243〜 
ぼくは人間だ、一人の人間なんだ      両親も記憶も過去もあるんだ    おまえがこのぼくをあの手術室に運んでいく前だって、ぼくは存在していたんだ!
この本の主張のひとつだとおもう。精神障害を持つ人間を、周囲は「人間」とみているのかどうか。おそらく答えはNoだとおもう。
ダウン症児の中絶率をみても、我が子ですら愛せない親がほとんどだ。
でも、それを責められる人はいないと思う。心ない中傷から守った、母の英断であるとさえ思う。障害を持って生まれるというのはそういうことなのだ。必ず、大小はあれど何処かで辛い目にあう。そんなのは健常者も同じだと言い張る人がいるのなら、まずは左手を落としてほしい、両足がうごかなくなってみてもいいだろう。本当にそう思う。
結局、その人の痛みなどはその人と同じ経験をしないと、想像で測ることは叶わないのだ。
もちろん、私には精神障害をもった人の気持ちなんてわからないし、そのことでどんな扱いを受けてきたのかも全くわからない。
だが、生まれて来なければよかったと思い涙する人の気持ちはわかる。
それを親に伝えることがどれほど親を傷つけることなのかということも。
もちろん、今は産んでくれたことに感謝するほどには成長している。

話がずれた。

  • p293〜
チャーリーが白痴の青年の行動に気づかず笑ものにしていたシーン

ここはかなり印象的だ。チャーリーは周りのみんなと一緒になってレストランでへまをする青年を笑っていたのだ。 そして、そのことにきがつかなかった自分に対して憤る。
チャーリーが知らず知らずのうちに「健常者」になっていた瞬間である。
彼は人間なんだ!と叫ぶチャーリーには、昔のじぶんを見捨てることはできない、それは今のじぶんを否定することになる、という気持ちがあったのではないだろうか。

同じ場面に
まともな感情や分別を持っている人々が、生まれつき手足や目の不自由な連中をからかったりはしない人々が、生まれつき知能のひくいにんげんを平気で虐待するのはまことに奇妙である。
という文がある。
ここに関しては非常に同意できる。
子供の頃はしかたない、身体障害を持つ人々はそのことでいじめられた経験もあるだろう。だが、環境にも寄れど大人になるにつれて周囲は協力的ないし「気にならない(おそらくほんとうに気にしていない)」という態度をもって接してくるように思う。
だが、精神障害はどうだろうか。
電車の中で見る、奇声を発する彼らを人々はどんな目つきで見ているだろう。それを安全圏から批判するわけではない、むしろ私もその中の一人だ。精神障害の痛みを知らない人間の一人として、この点には申し訳ないだとか、情けないだとか、うまく言えないけれどそんな気持ちになる。

  • p447〜
チャーリーがアリスをキニアン先生と呼んだシーン

このシーンは泣いた。青く静かな切ないシーンだ。アリスの心情を思うと涙が出る。愛した男性がまた白痴になり自分を愛したことも忘れて「キニアン先生」と呼ぶのだ。
何度読んでも泣ける。
以前知り合いにこの話をした時、「私なら会わないほうがよかったと思うかも」と言われて、とてもショックを受けた。
短いけれど、チャーリーとアリスが愛し合った時間は本物で、それは我々読者が意見してはいけない神聖なもののように思う。(私は本の中の彼らを、空想の人物で作者がつくったものだ、とはあまり考えない。一人間として尊重したいタイプだ。)
この二人の愛と切なさが私がこの本を大好きな理由だ。

少し長くなった。ここで終える。